それでも欲しいの

欲しがりやりたがりな女子大生のブログ

ぼやきと授業メモ

先週祖母と京都にいってきたのだが、あゆちゃん優しくなったねと言われた。嬉しくなくはないけれど、その言葉はなんか違うなあと私は感じている。たぶん、私は優しくなったのではなくて、多くのことに無関心になっただけだ。

特定の事に固執することがほとんどなくなったら随分と生きやすくなったけれど、代わりにとても気持ちが平坦になってしまって、つまらないし、時にそのことが物悲しくなる。

ただ、祖母になにかしてあげようと思うようになったのは優しさなのかもしれないけれど。でもどっちかというと、他人にかける優しさというよりは自分が後悔しないためのエゴに近い気がする。

他人の死なんかようよう想像できるものではないし、仮に想像してみても自分が誰かの死を悼んで泣く姿などほとんど全く思い浮かばないけれど、私は祖母が死んだときだけはきっと泣くと思う。

いちばん最近に死んだ身内は祖母同様に18年間ずっと一緒に暮らしてきた祖父だったけれど、病気が進んでいく姿を知っていたにもかかわらず、いまいちその死に実感がわかなくて、泣くことはなかった。ただ、最近になってようやく、もう祖父と話したりどこかに行ったりすることはできないんだなと思うようになって、悲しみをおぼえるようになった。

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来週の授業の発表者なので今不妊治療の文献を読んでいるのだけど、内容が重い。普通にAIDとかそういうのがよかった。これをまとめるのは気持ち的にしんどい。

内容とかなに読んだとかめんどくさいから書かないけどレジュメにする前に思ったことざらっとメモしとく。

人間の身体はそうそう簡単に説明できるものじゃないけれど、ざっくばらんに言うと子宮なんか取っても生死にかかわらない臓器だし取ってしまったっていいし、むしろ生理が面倒だから取りたいとかそう思うことだってあるけれど、もしもいざ子宮全摘出を迫られるときが来たら、きっと悩んでしまうんじゃないかと思う。

男女の区別なんか、生命を維持する臓器+ちんこorまんこくらいの話だとは思うのだけど、ただちんこかまんこかってことがめちゃくちゃ大事で、そういう男性/女性固有のものがなくなると、自分の中での男女の区分が曖昧になって、男性/女性としてのアイデンティティがゆらぐ。それで髪をのばしたりスカートを履いてみたり、躍起になって「私は女だ」とアピールするようになるのかなと思ったら、なんか悲しい。

子宮がなくなるから女じゃなくなる、閉経したから女じゃなくなる、なんてことは生物学的にはありえないけれど、そういう生物学的な男女の区分が我々の文化的規範の設けたものであるとするならば、女性としての機能がなくなった段階でその女性は女でなくなるのかもしれない。でもそれって間違ってないか。

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今日ここに書いたのは私が悲しいと思ったことばかりだけど、そういう悲しみを感じるようになったのは、私がいろんなものを失ってしまったからという理由なのが一番悲しい。

誰の役にも立てずに死にたくない。